2021年5月9日(第19号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 阿部潤也兄 | |
第2礼拝司会 : | 梅田典晃兄 | |
奏 楽 : | 三友庸子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 (会衆賛美) | |
祈り | ||
賛美 | 298番 (黙想) | |
聖書 | ローマ人への手紙14章1~12節 | |
牧会祈祷牧師 | ||
説教 | 私たちは主のもの齊藤副牧師 | |
献金 | 361番 (黙想) | |
頌栄* | 賛美歌541番 (会衆賛美) | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「私たちは主のもの」
副牧師 齊藤 耕
信仰によって生きる中で、それぞれの振る舞いが違い、互いにさばいたり見下したりする傾向があった。ある者たちは何を食べても良いと信じていたが、ある者たちは信仰のゆえに肉を食べず野菜を食べ、酒を飲むこともなかった。ここでは、前者を信仰の強い人と言い、後者を信仰の弱い人と言っている。パウロの関心は、両者に優劣をつけることではなく、互いにさばき合わないことであり、何よりも、なぜ互いにさばき合うべきではないのか,である。その理由は、第一に「神がその人を受け入れているから」である。第二に、「その人は主のしもべだから」である。第三に、「主がその人を信仰によって立たせてくださるから」である。だから、それぞれは心に確信をもって信仰による態度を決めれば良い。
肉を食べる者も主のために食べる。食べない者も主のために食べない。神に感謝しているから、そのように判断する。私たちはだれ一人、自分のために生きているのではなく、自分のために死ぬのでもない。生きることも、死ぬことも、主のためである。私たちは主のものだからである。何と嬉しいことだろう!
それならば、なぜ自分の兄弟をさばくのか。なぜ自分の兄弟を見下すのか。私たちは、一人一人が神に対して生きており、すべての者が神のさばきの座に立つことになるのだから。