2023年9月3日(第36号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 熊谷 剛兄 | |
第2礼拝司会 : | 栗原 誠兄 | |
奏 楽 : | 小室陽子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 1番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 262番 | |
聖書 | マルコの福音書8章34節~9章1節 | |
説教 | 「自分の十字架を負って」牧師 | |
献金 | 331番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
後奏 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「自分の十字架を負って」
牧師 齊藤 耕
主イエスは、ご自身の「苦難と栄光への道」を示された後、弟子たちと一緒に群衆をも呼び寄せて、ご自身に従われる者の覚悟を教えられた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
主イエスと共に行く道は、誰にでも開かれている。主イエスに従い共に歩むか、従わずに我が道を行くかは、主体的な決断によって選び取るものである。信仰は決断であると私は思う。愛の神の御手に委ね、人生をささげることである。
「自分を捨てる」ということは、自分の人生を、自分のものとして生きることを放棄することである。しかし、むしろ積極的な生き方である。自分の欲望に縛られず、自己実現に囚われない自由がある。その人生は、主イエスのものである。
「自分の十字架を負う」とは、十字架刑に処せられる死刑囚が、自分がかけられる十字架の横木を担ぎ刑場まで歩く姿に見る。その囚人のように、死を覚悟して生きよということである。ここにはむしろ生きよというメッセージがある。主イエスの苦難と栄光の十字架を思いながら、自分に与えられた福音の使命を負って生きることである。