2025年4月13日(第15号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
第2礼拝司会 : | 黒羽 徹兄 | |
奏 楽 : | 小澤良子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
使徒信条 | 週報をご参照ください | |
賛美* | 142番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
特別賛美 | 聖歌154番聖歌隊 | |
聖書 | ルカの福音書24章25~27節 | |
説教 | 『キリストの十字架と復活』坂野師 | |
献金 | 331番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
後奏 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「主イエスに学ぶ魂の配慮3」
― キリストの十字架と復活 ―
協力牧師 坂野慧吉
キリストが十字架にかけられて死に、また復活したという知らせを受けていながら、弟子たちは信じることが出来なかった。それは、主イエスがガリラヤで、弟子たちに「人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ三日目によみがえられる」と語られたことばを理解せず、また忘れてしまったからである。主イエスにとって、ご自分が十字架にかかって死なれることと、葬られること、三日目に復活することは、すべてつながっていることであった。使徒パウロはコリント人への手紙第一の15章で「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは…次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れ…そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。」と書き記している。
十字架で死ぬことがなければ、「復活する」こともないし、復活がなければ、キリストの十字架は私たちの罪の赦しのためであったことを信じる信仰も空しいのである。私たちは、キリストの十字架と復活をイエス・キリストの御業として、つながっていることと信じなければならない。私たちは、十字架の傷をもったままで、復活し、私たちに現れてくださった主イエス・キリストを信じているのである。