2025年6月29日(第26号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 宮崎雅之兄 | |
第2礼拝司会 : | 佐々木孝兄 | |
奏 楽 : | 峯 弥生姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
使徒信条 | 週報をご参照ください | |
賛美* | 7番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 310番 | |
聖書 | マルコの福音書15章21~32節 | |
説教 | 「主イエスの十字架」牧師 | |
献金 | 271b番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
後奏 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「主イエスの十字架」
牧師 齊藤 耕
ゴルゴダの丘に向かう途中、兵士たちは通りかかったクレネ人シモンという人に、主イエスの十字架を無理やり背負わせた。夜通しの尋問と暴力を受け、主イエスには一人で十字架を担いで歩く体力が無くなっていたからである。そこには、ご自分の使命を果たすために、他の人の助けを必要とする弱々しい主イエスの姿があった。神のご計画を成就するために人間の働きに頼る御子の姿である。一方、クレネ人シモンは、主イエスの十字架を無理やり負わされた経験をきっかけに、のちにクリスチャンとなった。彼こそが、その十字架の重さを誰よりも知る経験をした人である。しかし、彼にとって、その十字架は生涯かけて負い、更に、家族にも継承していきたい素晴らしい重荷となった。十字架刑を前にして、兵士たちは没薬を混ぜたぶどう酒を差し出したが、主イエスは飲まなかった。痛みを和らげる効果があったが、主イエスは十字架の苦しみに正面から向き合われた。通りすがる人は、「十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」と言い、祭司長たちも、「十字架から降りてもらおう、それを見たら信じよう。」と嘲って言ったが、主イエスが十字架から降りることはなかった。その十字架の死を遂げることが、罪人の罪を滅ぼし、信じる者に救いを与える神のご計画であるからだ。
私たちは、主イエスの十字架を自分に与えられた十字架として、どのようなかたちで負わせていただくことができるだろうか。そこに、主の荷は軽く、心地よいものであることを知る恵みがある。