2025年7月27日(第30号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 熊谷 剛兄 | |
第2礼拝司会 : | 黒羽 徹兄 | |
奏 楽 : | 小室陽子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
交読文 | ヨハネの福音書15章1~12節 | |
賛美* | 11番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 310番 | |
聖書 | 詩篇42篇1~5節 | |
説教 | 「神を待ち望め」牧師 | |
献金 | 270番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
後奏 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「神を待ち望め」
牧師 齊藤 耕
詩人にとって、『鹿が谷川の流れを慕いあえぐ』様子とは、どのようなものだろう。日本の風景とは違う。そこは、砂漠地帯である。目をうつろにし、今にも倒れそうな鹿の姿に、詩人は自分のたましいの渇きと重ねる。いのちに係わる渇きだ。彼は、自分自身に問いかける。『わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。』
彼は、主なる神と遠く引き離されていた。あるいは、自らが神を遠ざけてしまったのだろう。
エルサレムから遠く離れ、異邦人たちに囲まれ、「おまえの神はどこにいるのか」という声が絶えず彼に迫ってきた。世においては内に外に戦いがある。人間も弱肉強食の世界に身を置いている。孤独な戦いの中で、自分自身でも「私の神はどこにいるのか」と迷う。
かつては、喜びと感謝の声をあげて、神に礼拝をささげていたことを思い起こす。多くの兄姉と一緒に神の家に向かって歩んでいた。信仰生活は霊性の旅である。試練の中でも神の恵みがあった。そして、賛美と祈りがあった。しかし、今は神と遠く離れていた。その心が神と遠く離れていた。
*
詩人は、『わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。』と自問する中で、自らの渇きが神への渇きであったことを知っていく。そして、内なるものが、『神を待ち望め。』と自らを励ます。そこに、私の救いがあると確信して。