| 2025年11月9日(第45号) | ||
| 聖日礼拝 | ||
| 第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
| 第2礼拝司会 : | 黒羽 徹兄 | |
| 奏 楽 : | 小澤良子姉 | |
| 前奏 | ||
| 招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
| 賛美* | 539番 | |
| 祈り | ||
| 使徒信条 | 週報をご参照ください | |
| 賛美* | 121番 | |
| 牧会祈祷牧師 | ||
| 賛美* | 310番 | |
| 聖書 | ヨハネの福音書3章16節 | |
| 説教 | 「神は実にそのひとり子を」坂野師 | |
| 献金 | 138番 | |
| 頌栄* | 541番 | |
| 祝祷*牧師 | ||
| 報告 | ||
| 後奏 | ||
| (*の部分はご起立下さい。) | ||
「神は実にそのひとり子を」
協力牧師 坂野慧吉
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)聖書の中の聖書と言われるこのみことばを、最近特に深く味わい、「神の愛」を実感している。
聖書は、「神は愛です。」と述べている。神の本質が「愛」であり、愛の本質は「交わり」である。つまり、唯一の神であり、「父」「御子」「御霊」の三人格の交わりにおいて存在される神である。
その神が、「世を愛された」のである。「世」とは、神によって創造されたにも関わらず、悪魔の誘惑に負けて、罪を犯して神に敵対している人間である。神は、愛であるとともに、義である。罪を憎み罪に敵対するお方である。
義なる神が、罪の世を愛する時、そこに生まれるのが「神の痛み」である。神は「痛み」の内に世を愛するのである。そして、その「痛み」の極みが、御子イエス・キリストの十字架なのである。
「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙5章8節)