| 2025年12月7日(第49号) | ||
| 聖日礼拝 | ||
| 第1礼拝司会 : | 栗原仰基兄 | |
| 第2礼拝司会 : | 天野大樹兄 | |
| 奏 楽 : | 神野真理姉 | |
| 前奏 | ||
| 招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
| 賛美* | 539番 | |
| 祈り | ||
| 主の祈り | 週報をご参照ください | |
| 賛美* | 234 A番 | |
| 牧会祈祷牧師 | ||
| 賛美* | 310番 | |
| 聖書 | ルカの福音書15章1~10節 | |
| 説教 | 「救霊の喜び」坂野師 | |
| 献金 | 213番 | |
| 頌栄* | 541番 | |
| 祝祷*牧師 | ||
| 報告 | ||
| 後奏 | ||
| (*の部分はご起立下さい。) | ||
「救霊の喜び」
協力牧師 坂野慧吉
ルカの福音書15章には、主イエスが語られた「三つのたとえ話」が記されている。「たとえ話」を正しく理解するためには、第一に「たとえ話」が語られた「背景」を踏まえることが大切である。このたとえ話は、主イエスが取税人や罪人たちを受け入れて食事まで一緒にしていることを非難しているパリサイ人や律法学者たちに対して語られている。第二に、たとえ話の「中心的なテーマ」を捉える必要がある。この三つの「たとえ話」には様々な共通点があるが、特に目立っているのは、失った羊、なくした銀貨が見つけられた時、そして父親のもとを出て行った「放蕩息子」が「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」時の「喜び」である。そして「喜んだ人」は自分だけの喜びで満足せず、「一緒に喜んでください」と近所の隣人や友人をその「喜び」の渦の中に、巻き込もうとしているのである。放蕩息子の父に至っては、「祝宴」を開いて共に喜んでいるほどである。そして共に喜べない兄息子に、「おまえの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに、見つかった」のだから、「喜び祝うのは当然ではないか」と訴えているのである。
パリサイ人、律法学者に対する、主イエスの「愛の訴え」、「滅びに向かっている魂の救い」を願う主イエスの叫びが現わされている。