Urawa Evangelical Free Church すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 マタイの福音書11章28節
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2026年3月15日(第11号)
聖日礼拝
第1礼拝司会 :小室正彦兄
第2礼拝司会 :坂井邦雄兄
奏    楽 :小室陽子姉
前奏
招詞*詩篇100篇1~5節
賛美*539番
祈り
主の祈り週報をご参照ください
賛美*66番
牧会祈祷牧師
賛美*298番
聖書ルカの福音書18章35〜43節
説教「主イエスの弟子となる旅路」喜多師
献金121番
頌栄*541番
祝祷*牧師
報告
後奏
(*の部分はご起立下さい。)

「主イエスの弟子となる旅路」

喜多大樹師  

 宣教とは何だろうか。私たちは一体、何を伝えたいと思っているのだろう。何を聞き、どんな出来事を経験してきたので、私たちは「キリスト者」となったのだろう。
           *
 主イエスが十字架のエルサレムに向かう最期の街。ここはもっとも繁栄した都市のひとつであり、指導者、役人、商人たちがひしめいている場所だ。さらにこの時期は過越の祭りを直前に控えて、膨大な巡礼者たちが行き交う。
 非常に多くの人々が集まっていたと考えられるこの場所に、この時期に、ひとりの人物が大声をあげて叫んでいる。

  「ダビデの子よ、私をあわれんでください」

 彼の名前はバルティマイ(マルコ10:46)。この人は盲人であり、おそらくいつもこのエリコの道端で物乞いをしていた。彼の立場は極めて弱く、貧しさの窮地に置かれ、人々の虐げに晒されている。
 群衆は彼を黙らせようとした。目の見えないこの人が、弱く、貧しいこの人が、大きな声で主イエスを呼ぶことに我慢ならなかったのだ。しかし、彼こそが叫ぶ権利を持っている。彼こそが。人の弱さを知り、痛みを知り、喪失を知り、貧しさを知る者が、イエスを本当の意味で求めることができるのだ。
 主イエスは「彼」を呼び寄せられる。嘆きは喜びに変容しようとしている。イエスは彼の目を開くために「わたしに何をしてほしいのですか」と問いかけられる。
           *
 私は宣教とは「失われたものが回復していくこと」だと思う。「閉じた目が開かれていくこと」だと思っている。そうしてついには弟子となり、イエスの足跡を辿っていくことだと、信じている。
 今朝、私たちは主イエスと出会った人物の目が開き、弟子となるまでの軌跡から学ぼうとしている。

11時25分から第2礼拝をライブ配信します。第2礼拝終了後はその動画(録画)をご覧になれます。


説教の音声をお聞きになれます。
音源(音声ファイル)は上の映像とは別のものです。


【3月の暗誦聖句】
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。(ペテロの手紙 第一 2章24節)