| 2026年3月15日(第11号) | ||
| 聖日礼拝 | ||
| 第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
| 第2礼拝司会 : | 坂井邦雄兄 | |
| 奏 楽 : | 小室陽子姉 | |
| 前奏 | ||
| 招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
| 賛美* | 539番 | |
| 祈り | ||
| 主の祈り | 週報をご参照ください | |
| 賛美* | 66番 | |
| 牧会祈祷牧師 | ||
| 賛美* | 298番 | |
| 聖書 | ルカの福音書18章35〜43節 | |
| 説教 | 「主イエスの弟子となる旅路」喜多師 | |
| 献金 | 121番 | |
| 頌栄* | 541番 | |
| 祝祷*牧師 | ||
| 報告 | ||
| 後奏 | ||
| (*の部分はご起立下さい。) | ||
「主イエスの弟子となる旅路」
喜多大樹師
宣教とは何だろうか。私たちは一体、何を伝えたいと思っているのだろう。何を聞き、どんな出来事を経験してきたので、私たちは「キリスト者」となったのだろう。*
主イエスが十字架のエルサレムに向かう最期の街。ここはもっとも繁栄した都市のひとつであり、指導者、役人、商人たちがひしめいている場所だ。さらにこの時期は過越の祭りを直前に控えて、膨大な巡礼者たちが行き交う。
非常に多くの人々が集まっていたと考えられるこの場所に、この時期に、ひとりの人物が大声をあげて叫んでいる。
「ダビデの子よ、私をあわれんでください」
彼の名前はバルティマイ(マルコ10:46)。この人は盲人であり、おそらくいつもこのエリコの道端で物乞いをしていた。彼の立場は極めて弱く、貧しさの窮地に置かれ、人々の虐げに晒されている。群衆は彼を黙らせようとした。目の見えないこの人が、弱く、貧しいこの人が、大きな声で主イエスを呼ぶことに我慢ならなかったのだ。しかし、彼こそが叫ぶ権利を持っている。彼こそが。人の弱さを知り、痛みを知り、喪失を知り、貧しさを知る者が、イエスを本当の意味で求めることができるのだ。
主イエスは「彼」を呼び寄せられる。嘆きは喜びに変容しようとしている。イエスは彼の目を開くために「わたしに何をしてほしいのですか」と問いかけられる。
*
私は宣教とは「失われたものが回復していくこと」だと思う。「閉じた目が開かれていくこと」だと思っている。そうしてついには弟子となり、イエスの足跡を辿っていくことだと、信じている。
今朝、私たちは主イエスと出会った人物の目が開き、弟子となるまでの軌跡から学ぼうとしている。