2024年2月4日(第5号) | ||
聖日礼拝 | ||
第1礼拝司会 : | 小室正彦兄 | |
第2礼拝司会 : | 尾崎 証兄 | |
奏 楽 : | 小澤良子姉 | |
前奏 | ||
招詞* | 詩篇100篇1~5節 | |
賛美* | 539番 | |
祈り | ||
使徒信条 | 週報をご参照ください | |
賛美* | 7番 | |
牧会祈祷牧師 | ||
賛美* | 313番 | |
聖書 | マルコの福音書10章13~16節 | |
説教 | 「子どものように」牧師 | |
献金 | 461番 | |
頌栄* | 541番 | |
祝祷*牧師 | ||
報告 | ||
(*の部分はご起立下さい。) |
「子どものように」
牧師 齊藤 耕
主イエスは、『子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません』と言われた。子どものままでいるようにと言われたのではない。子どものようになることを求められた。使徒パウロは、『…考え方において子どもであってはいけません。悪事においては幼子でありなさい。けれども、考え方においては大人になりなさい。』と言っている。すなわち、キリスト者として成熟した大人になり、その上で自らの選択によって子どものように神の国を受け入れるのだ。
「子どものように」とは、何を意味しているのか。子どもの心は純粋で素直なのだろうか。そうではない。子どもも罪を負っており自己中心で我がままだ。むしろ、成熟しておらず、あらゆる面で弱い器だ。しかし、その弱い器だからこそ、差し出された愛を受け入れることができる。差し出された愛を受け入れなければ、自分は生きられない弱さがあることを知っている。主イエスは、そのような子どもの姿をご覧になられていたのではないだろうか。
私たちは魂において、子どものように弱い器であることを知らなければならない。あるいは、私たちの肉体において、現実的に弱さが表れてくる中で、主の御前にぬかずくことしかできない自分の弱さに気が付かされるのかもしれない。そこに、主の祝福の御手が触れてくださることを信じている。